もうあげる側になっちゃうなんてね。
去年の秋に叔父さんになっちゃったものだから、ついにお年玉をあげる側に回ってしまった。
自分自身がいつまで貰ってたかは正直なところ覚えていないのだ。大学生の頃は貰ってたような気もする。プー太郎の時にどうだったかは定かじゃない。就職してからは多分もらってない。
「お年玉が電子マネー」みたいなことを去年の年明けに会社の先輩が言ってて(その人がもらった子の親だったのか叔父叔母だったのか、何の立場だったのかは忘れてしまった。少なくともおじいちゃんおばあちゃんではないのだけど)、(あぁ、そんな時代が来たのか)なんて思ったのを今ふと思い出した。
俺みたいな心の汚い人間は(現金の方がいいなぁ。それってPayPayとかの還元キャンペーンのお金だったんじゃないの?)なんて思ってしまうのだ。「そんなことを言うのは現金主義の人間だけだ。お前は古い!」と言われてしまうかもしれない。それはそれとして、俺は古い人間だという自覚はある。別に構わない。
「お金をあげる」になっちゃったら、それはお小遣いなんじゃないかな、って思ってしまうのだ。
あくまでまぁ、「お年玉を渡すという文化を経験してもらう」という点においてだけの「学習機会として、現金を渡した方がいい」ということただ一点なんだけど。
「現金も電子マネーも一緒だろこのすっとこどっこいが。電子マネーの方が新札に替えなくてもいいし合理的だろう」と言われてもしょうがないと思う。それはそれとして、俺は古い人間だという自覚はある。別に構わない。
もっというと、「お年玉を現金で渡すかどうかの判断を自分でできずに、古い風習を踏襲して判断のできない人間だ」といわれても不思議じゃない、とも思う。それはそれとして、もういいか。
でも俺は「風習大好き人間」なので、みんな今後も現金で渡してくれたらなぁ、と思わずにはいられないのだ。年賀状は返事しないといけなくなっちゃうからあまり積極的には送らないようにしてるから、そことは矛盾が生じているのだけど、相手の手間があるなしというのは結構大事だと思う。
無駄なところ、合理化を図るところはしっかり図ればそれでいいんじゃないかと思うのだ。押印廃止とかもハンコ屋さんの気持ちを考えたら何とも言えない気持ちになってしまう。廃止じゃなくて共存じゃダメなのか。俺は字が汚いからできれば押印がいい。俺の字が汚い問題はどうにもならないのだ。
話が逸れてしまった。そうはいっても、もらう側の子どもたちからしたら「なんでもいいや!電子マネーの方が貯金されなくていいし!」ってものなのかもしれない。それならそれで、もらった子たちがそういう流れにするのなら俺は納得してしまう。
当ブログを読んでくださる奇特な皆様、とりあえず今年もよろしくお願いします。